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夕ドラー31

 モスクワのホテルの部屋割りが ロビーで在ります。  同じ列車で来た人は 15人ほどもいましたが 何故 同じ車両になっていなかったのかと 思う この ツアーの不思議さです。 荷物を部屋に置いて ホテルの前あたりを 散策に出かけます。 コンビニのような個店を除くと 店の棚に歯 ほとんど品物がありません。 多分 この辺りは 街の中心部だと思うのですけど 四国の田舎の 我が町の 個店より哀れです。
 同じホテルのご夫婦の方が 西瓜を買ったけど 食べます。と その辺にいた 何人かに声を掛けています。
  どれどれと  モスクワの西瓜はどんなもんじゃろか?と その輪に加わって 手を出します。 三角切りされた てっぺんをかじりついたのに 西瓜の 川のあたりをかぶりついたような ただただ 水っぽいだけです。 相当 高かったはずですが・・・
 一口食べて 何だ こりゃ ぺっと 吐き出すわけにもいかず 色ついているあたりは 生水より安心化と 食べます。!?
 誰かが 向こうで買った ソフトクリームが 美味しかった!と言うので そちらをたべてみなくっちゃ と まあ ここいらは東京の 銀座道理だと思える 歩道で 自転車で営業中の ソフトクリームやさんを見つけます。  美味しい!です。 此方は 四国にはない 本格的な ソフトクリームです。
 しかし この銀座通り を行く 人は しょぼくれた コートに包まれ 寒々しい 様子です。

 

夕ドラー30

  パリに向かって 日本を出発したのは ちょうど今頃の季節でした。 梅雨入りした 日本は 蒸し蒸とした暑さでしたがナホトカ号がソ連の港に着いたときは まだ 浅い 春を感じ刺す 風が吹いていました。
 船内では 日本人が沢山いたように思ったのですが 巾ロス句を離れた列車に歯 数人しか乗り合わせていません。 みなさんは どんなコースですすんでいるのでしょうか?  そのころは ソ連国営のインツウリストの言うままのスケジュールでした。 駅では 切り離されたり 連結したりしそうで 長い列車内を全部 見て回る 勇気はありません。  僕の 車両に歯 日本人は ただ一人です。  列車に歯 泊まる駅ごとに 地元の人たちが 乗ったり 降りたりしていきます。  兵隊さんが 目の前で 裸になっています。 ど ど どう どうするんですか??
   そうかと 思ったら 乗り込んできた労働者の仕事着の 小父さんが  僕のベットで寝ころびます。 えー おっちゃんの添い寝はいりませんよ! 列車の長旅も それなりのアトラクションがついていて モスクワに到着です。 うっ 寒い モスクワは まだ冬です。 パジャマの上に しゃつやベストを重ね 降り立ちます。

夕ドラー29

  2023ねん6月18日 昨日の事ですが フランス西部で 大地震があったと 報じられています。
 僕の 生まれて育った 四国の瀬戸内では ほとんど自身が 在りませんでしたが 東京でガッコへ行くようになって びっくりしたのは
朝な夕なに 小さな地震だけど しょっちゅう揺れるのには   不安でした。  ぱりでは 地震が在りません パリジャンに パリには自信がないよ と言われて それはそれで 不思議でもありました。
 そんな時 小松左京の 日本沈没 の映画が話題だったので もしかして 中央構造線の走る わが故郷が 瀬戸内の海に 崩れこんでいるのでは と そんなニュースを 毎日 ちゅうもくしてましたが・・・
で 今回の地震で 50年前 放浪した 南仏の 小さな村の 石を積み上げた 其れでなくっても壊れそうな ローマ時代の要塞 カルカッソンヌなどは 大丈夫でしょうかね?

夕ドラー28

カフェテラスに入っても へい ジャルソンと呼んでも 我ら  黄色人種を 後回しにして なかなか注文取りに来ません。 それなのに チップはきっちり取ろうとしますが・・・
美術館の 窓口でも おしゃべりしながら横向きの対応だったり チケットを放り投げたり 失礼な態度を 態とします。
 そんな 西洋人の曲田根性が ボザールのアトリエにも 有ります。 まあ そんなことはほっといて 僕は 全国美術学校店の 作品の制作に 集中です。
 アトリエの  印象的だった大きな窓をモチーフに  っパリに来て 一番の自由な気持ちでさくひんが仕上がりました。
 搬入の日です。 僕は登録ができていなかったので 登録したが 出品しない日本人の名前を借りて 一階の 広いデッサン室まで持っていきます。 ち人の名前をかたっているので おどおどとしてしまいます。 ここで 集めて 学校が搬入してくれるようです。 大丈夫かな ドキドキが残ります。
 次の日 Y教授がアトリエに来てすぐ 此方に近づいてきて さくひんの搬入うをしたか? と こそっと聞かれます。 はい としか答えられませんでしたが  教授はみやっと笑い顔をして 向こうに行きます。 たぶん アトリエの中で僕が微妙な位置にあることを 知っていて 気にかけてくれていたのでしょう。
  教授に歯最初から おーい 見っぽン人と呼びかけて いろいろ 牽きまわしてもらっていました。 もしかすると 教授もフランス人ではなく 西アジアあたりの出身では と思われる顔です。 ヨーロッパも人種差別が 深く根差しています。
 

夕ドラー27

Y教授のアトリエに歯 それでも毎日通っています。  ボザールのアトリエにあるさくひんも 片づけて  送れるものは 荷造りしなきゃいけません。 そんなときです。
 全国国立美術学校展がひらかれると耳にします フランス全土に 五校ほどある ボザールの生徒の作品が パリに集められ 展示されるそうです えー 僕も出品していいのだろうか!? 今 一枚大作を制作中です。 出品したいと思いますが クラスの誰からもこえがかかりません。
そんな時 日本の総理 田中首相が来仏との噂です。 学校の近くの ノートルダム寺院に来られるとのこと おのぼりさん気分で 僕は出かけます。 わー 予想以上に 寺院の前の広場に歯 ものすごい人だかりです。
 黒塗りの高級車が 難題も滑り込んできて その一台から 田中首相が 降り立ち 広場全体に向かい 手を振ります。 えっ なかなかの貫禄だな!と 思わず 感激して こちらも 手を振り返します。

ユウドラー26

パリに到着して 直ぐ  安心したのか 体調を崩しました。 友達が ヨーグルトとかバナナとか 体によさそうな物を買ってきてくれます。 プレーンのヨーグルトは その時が 諸体験です。 日本では ヨーグルトと言えば 甘くって 一寸酸っぱい 楽連の飲み物でした。 50数年前は まだ 田舎にはスーパーが無く いまでは 普通に食べている ブルガリアのプレーン ヨーグルトとか チーズやベーコンや フランクフルト等 西洋の食品は 目にすることがなかったです。
   体にいいからと言われても プレーンヨーグルトはなかなか喉を通りません。 良薬 口ににがしです。
バナナにつけて食べ 体を壊した動物のように ただただ 毛布にくるまって眠るしか すべがありませんでしたが それでも  二日目には  体調を取り戻す 若さがあったようです。
 大病もなく パリ滞在も 終わりに近づきました。
 荷造りのできた 段ボール箱をもって 街のほうの 運送屋まで 手をしびれさせながら 運んでいきます。
 ルートを シベリア経由にしようか それともマルセーユにしようか 二個の荷物を持ってきています。 一個づつ 別ルートにしようか? 決断が付きかねます。

夕ドラー25

 部屋の片隅に 番ボール箱が一つあります。 それには 日本の本や週刊誌 漫画に新聞など 色々はいってます。  商社マンの人から 観光旅行の人や 何かの折に 手に入った 日本語の本の本たちです
 ホームシックに歯成らなかったが   耳から入るのも外国語 街の看板も ぽすたーも 外国語 メニューも食料品のデザインも外国語 日本語が恋しい  日本語に 飢えていきます。
旅行者から貰った新聞 もう 一週間以上の前のものだけど ひっくり返しては ひっくり返して 眺め回し テレビランは 泪が出ます。 夏目漱石のぼっちゃん 懐かしさがあふれ出します。
 漫画本の サザエさん せりふを覚えてしまい 日本の友達との 姉や 弟 とうさん かあさん 爺ちゃんの家族をしのぶ 会話になります。

夕ドラー24

 文房具店に あ文房具店と思ったのは ショーウィンドーに 万年筆とか それらしいものがならんでいたからです。  荷造りに必要な ガムテープ ハトロン紙 にづくりひもを 買いに行きます。  で ダンボール箱もありますか? と聞けば 店主産が 裏から 三箱ほど持ち出してきます。 これは 幾らですか? いいよ 上げる!と言われたので マジックも買い足して帰ります。  そして それから スケッチや区ロッキー 小さな油絵を 整理しつつ詰めていきます。  パリに来た頃の懐かしいスケッチ   あー やっぱり 新鮮な 初々しさにあふれています。  物慣れてきて ウマクまとめ上げられたころの スケッチ
 短い間ですが それなりの物語があり 思い出に浸りつつ 整理しつつ 段ボール箱に 詰め込みます。  毎ヨ 通った 区ロッキーは 思いのほか 沢山で
全部送るにはには 重すぎるので 気にいらないのは どんどん捨てます。
 そして 特別 上出来の お気に入りは スーツケースで持ち帰り用にと 残します。  それというのも 僕の了する 日本までの船便は マルセーユ経由かソ連経由の二便があるのですが・・・  どちらも  安全安心とは言えず 運が悪ければ 荷物が行方不明になったり 中を開けられたり 其れでなくっても 取り扱いの悪さで 荷造りが ひらいたり 何かと トラブルが 多いらしいのです。

夕ドラー23

55年前は まだまだ戦後を引きずっているし ドルは360円だったし 旅行と言えば 一泊の温泉ぐらいで まだまだ かいがいに 行く人も無い頃だし 僕には 危うい 視力の障害がありますし そんな状態で 許されるはずの無い 事だとわかっていますが  幼いころ大学病院で 医師から告げられた 思春期で失明の恐れが在りますよ!という言葉と 現実に いとこが30歳過ぎで失明している 状態も 見ていますし。 行くのは今 今行かねば しりょくが失われてしまうと 出かけてきました。   視力が危ういというのは大変です。 特に 屋網の強い ぼくは あっちこっちで 躓きの連続で 周りの人から 変なまなざしを受けます。
 切符売り場の 窓口は暗い ホテルのチエック院のカウンターは暗い 掻き込むカードの文字が見えない 古い建物の 階段が暗い ホテルの部屋は 間接照明で暗い 街のレストランは バーのように暗い
 観光とは文文字に反して光が乏しい! 闇から 闇を 潜水しているような気分にもなります。 それでも 見たかった ヨーロッパです。 頑張りました わんわん

ユウドラー22

そろそろ 持ち金が 危うくなってきます。 ちゃんと 留学と言うような形での フランス滞在でも無し 親の反対をというか 折角務めていた 支援学校も無断でやめ ひそかに パスポートを取り 近くにできた 日本旅行者では モスクワ経由の手配ができないというので東京まで 切符を買いに行ったりも  こっそりと すすめていましたので 全く 親からの援助は   在りませんでした。  と 言っても 働いている間に 家賃も 食肥大も 払っていたわけではないので こちらも 何にも言えませんです。
 仕事をやめて 一週間目に歯 東京に向かって家を出ます。 少しは                      父からの選別はきたいしては いたのですけどね。 唯 母は 出発の前日 僕の好きな ちらし寿司 御萩など 心づくしで 造ってくれます。
うーん まだ帰りたくないな 国立美術学校にも行けてるし 展覧会にも入選したし もうちょっと頑張れば それなりの道もつくだろうし などなど 日々考えつつ 一方では 描き貯めた絵の整理をしたりし始めます。