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夕ドラー21

 思えば 春だったのだろうか? そのころ よく日本人の方にも声をかけられます。
脳とるダムの鐘楼に上っているときです。 人品卑しからずの伸氏から 絵の勉強に来ているの?と聞かれます。 はい と答えると 私も 若いころ来ていたんだよ。 で 何処で勉強しているの    と聞くので ボザールと えこーるモンパルナスと 時に アカデミーグランド しょみえーるも言っていますと 応えると そのほうは にやと笑って おんなじだ 私も言っていたよ!と 懐かしそうです。 あれ もしかして 有名な 画家なんだろうか?
 いいな年を取って 余裕が在ったら 僕も パリに来て 出来れば個展をやったり 若いころをしのんで 多比をしてみたいものです。
小さな美術館に行くと 政府留学の 美術研究者などからも声をかけられます。 研究は エコール ド パリ何でしょうか? カフェに誘われ パリの生活の話などします。 その時 何か珍しい 飲み物をごちそうになりました。
 政府留学と言えば クロッキー教室にも いやに 目つきの厳しい 独特の風貌を醸し出している ソルボンヌの理学部で研究している学者さんと 親しくなります。  一度研究室に遊びにおいで   と言われたので なんでも 見ておきたい 見たがりの僕は 出かけます。 ソルボンヌの文学部などは 古い建物ですが・・・ パリ郊外の学園都市に在る 理工学部は   50年前としては 鉄骨とガラスの超近代的な建物でした。 学生の皆さんも きりきりと動いていて 映画で見た 究明病院に似ている ムードでした。
                                      
で理学者さんはこの緊張から 解きほぐされるために 人間的なクロッキー教室に来ているんだ と言っています。         

夕ドラー20

 アレイ後 アンヌとは親しくなって食事に招かれたりもして 彼女も ボザールのY教授の教室にも通ってくるようになります。
 僕が ボザールに自由に 出入りできた理していることや そのごろ 日本も 戦後から復活し バブルの時代を迎えつつあり 印象派以後の 明るい絵画が 求められるようになり Y教授も日本で賞賛されているようで 急に アトリエがニッポン陣でにぎやかになり Y教授の おーい ニッポン人の声も かけられることが少なくなります。
 そのころ セーヌ河畔でスケッチをしていますと イタリアの島の美術学校の教授だという ローマ彫刻のような 荒々しい印象の人から 話しかけられます。
 僕も イタリアの美術にも 興歓心があり 話が盛り上がり イタリアへ 行きたくなります。 じゃ きなさいよ と言われ 美術学校や 教授のアドレスを書いて 渡されます。
フランスに来て ドイツや べるぎー そしてオランダの ヨーロッパの北のほうや スペインなどは 少しづつ 美術館巡りをしていたのですが・・・ イタリアは物騒だというので ちゅうちょしていたので 一気に 恐れを知らない自分が目覚めています。

夕ドラー19

僕は朝から夕刻までは ボザールのアトリエで油絵の政策をします。 食事会の無いときは 電気コンロを持ち込んでいて コーヒーを沸かせ フランスパンをかじり昼飯とします。  マンションに帰って夕飯を食べ  7時からのパリ市立美術学校のクロッキー教室に 出てきます。  しかし 往復に一時間以上はかかるので リュクさんプール講演などスケッチや散策で時間をつぶし そのまま モンパルナスの学校に行くことも多くなります。 パリの冬は夕暮れが早く 寒いです。 そして やっぱり栄養不足で5塲海笋擦藤苅貝圓砲覆蠅泙后
しかし クロッキー教室は 楽しいです。 モデルさんが男女混合で  同時に3人も来るときがあり ルネッサンス絵画のような 組ぽーずもしたり 常に動いている ポーズを 描いたり 日本の学校では 体験できなかった事が多いのです。 それに 様々な国と 学生ばかりでなく 様々な職業や年齢の 人たちとの出会いもあります。
   サロンの会場で助けてくれた アンヌとも此処で 出会いました。  

夕ドラー18

  るサロん祝賀会の日です。 モーニングなどは持っていませんが 日本から 持ってきた いちょらのVANジャケットを着ていきます。
 日本大使館は凱旋門の右に入ったところに在り 日の丸の旗を はためかせています。
 立食パーティだと うわさに聞きます。 もしかして 寿司の屋台とか 天ぷらの屋台がでてるのでは と 心ウキウキ ワクワクです。
 受付で名前を告げます。 失礼ですけど お名前が見つかりませんと受付嬢が・・・ 寿司を前にして これですか・ ガーン またまたのトラブルです。 合格通知も  招待状も届いているのにです。 もしかして ぼくをイタリー人とかに見違えてるのかな!?
 それでも なんとか中に入れます。 レセプションルームには もうたくさんの人でにぎわっています。 やっぱり 着物姿の人もいたりします。
 大使やルサロンの役員産などの お祝いの言葉があり パーティの始まりです。  フランスに来て数か月ですが 僕の知り合いは一人も見つからず 小父さん 叔母さんの年齢の多い中で 二十歳半ばの僕は なじめない空気です。
 フランス ダイイチの サロンに経緯を模様して この祝賀会も開かれて いるのでしょうが 権威主義的な しらじらしさもあり  そんな感じだったので その時寿司を食べれたのか どんなごちそうがあったのか 全然 思いだせません。 わんわん

夕ドラー17

 みなさんで 話し合った結果 最初に 言われたように 少しずつ 左右に動いてもらい 僕の作品を 割り込ませるようです。
 話し合いの内容は フランス語なので ほとんどわからなかったが 雰囲気的に アンヌが頑張ってくれたようです。
 アンヌのお爺ちゃんは  映画 モンパルナスの灯  貧困と病気に悩まされながら 売れない絵を描き続け  苦悩の短い人生を 彼を取り巻く女性たちを交え 東大第一の美男俳優の ジュラル フイリップスが主演し 大評判になりました。
 そんな祖父を持つ マゴノアンヌは 母親も 美術評論家でもあり この おパリで 肩で風を切って歩ける存在です。 ありがとう アンヌ 折角 出品し入選したのですから
僕の作品も 沢山の人に煮てもらいたいです。
 それから 数日後 パリの日本大使館から るサロん入選の祝賀会の案内と招待が届きます。
わー モーニングにシルクハットが必要ですか!?

夕ドラー16

 次の展示場への角を曲田ところで 君の絵が ソファの上にあるよ!と ボザールでの 同じアトリエの 見知った顔が 居指差し 言いながらすれ違っていきます。
 えっ 何のことだろうかと 指さされた 次の部屋に入ると その部屋は少し広めで 真ん中に ソファがおかれていて なんてことですYか 僕の作品2点が みなさんの作品が かべにしっかり立っているというのに ソファでのんびり横になっています。
これはどういうことですか・・・ 色々 紙を張ったり 破いたりしているから 展示されずに ここに置きっぱなしになったのですか? だが 合格通知は 確かに届きましたし と なすすべもなく 唖然としていますと・・・
 その時 向こうの部屋から ひょっこり現れたのは モンパルナスの市立美術学校の黒っ気教室で 一緒の アンヌでは在りませんか  彼女に この状態を示し ますと 彼女は あっ と驚いたかをしつつ 直ぐ事態を察して 事務室へと 走ってくれます。
まもなく 事務局の お偉方数人と 作業スッタッフまで  引き連れて帰ってきます。
事務局の人達は 僕の作品を 壁に立てかけながめてます。 あら 悪くないじゃない!と 女性の一人が 言いますと みなさんも納得した感じで 其処の壁に 描けようとしますが 其処に歯 それなりに 配列されて さくひんが飾られています。 僕の作品を飾るためにはじかれそうになった作品の画家さんが それをっ刺してか  その場に来ています。駄目だよ 困るよと抗議してきます。
作業ふたっふさんが じゃ 君のさくひんは あそこでどうだ と指をさしています。
その 指さされたところは  2回に上がる階段の踊り場で 展示場から離れていますし 誰もその階段を利用していません。

夕ドラー15

描き上げたさくひんに 板を買ってきて カリ額を作ります。 そして 搬入です。 ボザールから 展示会場の グランパレまでは3劼曚匹任垢 30号と40号のさくひんを持って歩くのは難儀です。 50年も前の事ですから 歩いて持って行ったか? 地下鉄で行ったか? そして パリで一番大きい展示会場グランパレの 何処で どんなふうに 搬入したかも 思いだせませんが 自分一人で よくできたものだと 思って 自分のことながら感心したりしています。
 数日して 2点の合格通知が届きます! わー よくやったぞ と自分で自分に乾杯です。 昔は るサロんは画家の登竜門 一番の美術展です。
自分で作ったキャンバスに パリに来て刺激の受けた あれこれ 最初にY教授の言われた 自分のために描きなさい!と 言われた意味が 少し分かりかけ 悪戦苦闘で画面に盛り込んだ さくひんの合格は やっぱり 嬉しかったです。
 展覧会初日です。 勇んで グランパレに向かいます。 何処に 展示されているのだろう。 日本の美術雑誌でも 見かける画家の絵もあり さすがだな と 思鵜が それは後でゆっくり見るとして まずは 自分の作品を探さねば と 次のコーナーへ向かいます。

夕ドラー14

ギャラリー展も終わって・・・ 今週は 助手の先生による キャンバス造りです。 適当な大きさを選んで ドンゴロス麻布を切ってもらいます。 それを 木枠に軽く刈り止めをして 電気コンロの上で ぐつぐつと煮立っている膠を ボールにもらって 塗っていきます。 ものすごい 匂いです。
木枠のドンゴロスを もう一度しっかりと 木枠に張り直し 布がしっかりとするまで 乾かしては 何度か塗り直し 乾かします。 ドンゴロスが 荒いためか 売られているような しっかりしたきょんバスにはなりません が この粗っぽさも またいいかと 乾くまで 窓辺で 新鮮な空気を吸います。  その手作りキャンバスで 次の日から 制作です。 パリに来て 初めての対策に 取り組むのです。
 でも このぼこぼことした感じにはなじめず 次の展覧会に出す もう一点は 厚紙のカルトンにに しようかと思うところです。
 このアトリエに入ってすぐ見た あのルオーの挑戦的な態度が忘れられず その気持ちで 2点の作品を  乗り切れない感は残りますが なんとか 仕上げ 予定していた ル サロんに出品しました。

夕ドラー13

今日も  出かけるぞと Y教授から声がかかります。 パリの地理に不案内な ニッポン人 僕は 車に乗せてもらっています。  何処かへ行くといったけど 何処かが聞 き取れません。 車はルーブルも通り越して シャンゼリゼの先で 左に回ります。 こんなところに美術館は在るのでしょうか?
 到着したところは ふファッションブランドノメゾンです。 まさか 洋服を買いに来たわけではないでしょう!? 洋服を並べられた 店内は見向きもせず 2回に 上がります。 店舗以上に ゴージャス間の溢れる部屋に入ります。
 テレビで見たことがありますが セレブな顧客が来た時には 子此方に通して   客の好みそうな洋服を ハウスマヌカンたちが 次々と披露し あれも これもと 買わせる場所でした。 あ こんな 派したない言葉を言ってはいけません 貧乏人のヒガミです。 このホールを見えただけでも 儲けものですよ!  その上品なホールに  壁面をめぐらし 後期印象派風の絵画が並べられています。
 これ 俺の親父の絵何だ!と言います。 へー お父さんも画家だったんだ! Y教授は おぼっちゃまです!
 我々は 勝手なことを言いながら 見て回ります。 教授は ちょっと照れた顔です。
 このような ゴージャスなしつらえの中で 印象派の絵を見ていると つい 買いたくなっちゃうんだろうな  わんわん

夕ドラー12 

 次の日 教室に入ると 世話役の女性が近づいて機て 今日 貴方 ギャラリーの受付をしなさいよ と言います。 そして 一緒にギャラリーに行って 色々と受付の心得を教えられます。 その中に もし 展示のさくひんが欲しいという 問い合わせがあったら 此処に電話して と言って メモなどを置いて 教室へ帰ってしまいます。 えー 50年以上も前の事 まだ 携帯電話も在りません。 僕のフランス語では 電話で伝えられる能力はありませんぞ! まあ 如何にでもなれ!と ギャラリーの中をうろうろ みんなの作品を 眺めまわしてますと Y教授が現れます。 そうだ 今日はアトリエに 教授の来る日です。 教室に行く前に 立ち寄ったのです。
 お前ひとりか と訪ねてきます。 はい と答え 困り顔をしていると フランス語の堪能な 一郎君が入ってきます。 何故 こいつが一人で受付をやっているのか?と 言葉もできない 奴が一人では どうにもならんだろう というようなことを言ってるようです。 一郎君は 彼がやるというから任せたのだ!と応えています。 え 強制的にやらせられてるんだけどね!
まあ そんなこともありましたが 一週間後 我がクラスの展覧会は 終わりました。 遊学のじぶんにとっては いい経験になりました。 ちょっと アトリエないがぎくしゃくしましたが 僕はこれから 出品したい展覧会が続くので 自由に使える 広い空間の このアトリエを手放すことは出来ません。 感情を隠して 毎日通います。 そして それからも 教授の おーい ニッポン人 だれそれの個展を見に行くぞ と 言う誘いも 変わらず続きます。